吉野川橋梁−吉野の木材産業と観光を支えてきた橋梁

川面を見下ろして吉野川橋梁を渡る近鉄電車
 国が進めた鉄道網が及ばなかった地域では、当該地域の有力者が中心となって国鉄のフィーダー線たる地方鉄道の整備が進められた。吉野鉄道もそのひとつだ。本稿では、地域の産業の発展を願った先人の努力により敷設された鉄道が、木材工業や観光に活用され、地域振興に大いに寄与してきた経緯を追ってみた。

野は都で政争に敗れた人が隠棲して再起を図るところであった。天智天皇の崩御のあと吉野に逃れた大海人皇子は、ここで挙兵して壬申の乱を制して皇位を奪った。兄の源 頼朝に追われた義経は、吉野で静御前と別れて東国に脱している。足利 尊氏に幽閉された後醍醐天皇は、吉野に南朝を開いて皇統の継続を図った。彼らが吉野を拠点としたのは、背後に重畳たる山々が連なって防御が容易だった一方、吉野川に沿って和歌山や伊勢に通じる道路により都を側方から攻撃できる好立地だったからだと思われる。
かし、その利点は近代の交通機関である鉄道には生かされなかった。大阪・京都に接する奈良県では比較的早くから鉄道の建設が進んだが、それらは奈良盆地の地域に限られ、吉野川流域にはわずかに五条に南和鉄道(明治29(1896)年)が通じたに過ぎなかった。吉野にも鉄道の利便をもたらすには、吉野の人が努力しなければならなかった。
 明治30(1897)年に土倉(どぐら) 庄三郎1)(天保11(1840)〜大正6(1917)年)ほか19名により「吉野鉄道」が設立され、南和鉄道の葛(現在の吉野口)駅から吉野までの鉄道を企画した。が、建設は遅々として進まず、35年に会社は解散を余儀なくされた。その後、41年に「吉野馬車軌道」が出願され、43年の「軽便鉄道法」(明治43年法律第57号)の公布により事業内容を軽便鉄道に変更して44年に「吉野軽便鉄道」として建設に着手した。同社は、はじめは資本金の払い込みが進まず土倉らの吉野鉄道の轍を踏むかと懸念されたが、時の吉野郡長の努力により発起人に阪本 仙次2)(明治2(1869)〜昭和9(1934)年)を迎えるなどの強化を行って事業を継続。薬水峠にトンネルを掘るなどの困難はあったものの吉野鉄道の買収地を活用して工事は順調に進み、大正元(1912)年に吉野口〜六田
図1 吉野鉄道とそれに関連する鉄道路線
(当時の駅名は吉野)間11.6kmが開通した。
 吉野軽便鉄道は、軌間を国鉄と同じ1,067mmとしたので、木材を積んだ貨車はそのまま国鉄に乗り入れて全国の目的地まで運ばれ、春には吉野山の観桜客が湊町から直通列車で吉野まで来ることができた。
 翌年、社名を「吉野鉄道」に変更し、路線を奈良盆地に延伸することを企画する。まず、大正12(1923)年に吉野口〜橿原神宮前間を延伸して「大阪電気軌道」(以下、大軌という)橿原線に接続し、翌年に橿原神宮前〜畝傍間を延伸して国鉄に乗り入れた。併せて電化を図って列車運行回数を増やし、輸送力を大幅に増強した。次いで、吉野山への利便性を高めるため、六田〜吉野間4.4kmを延伸し昭和3(1928)年に開業している。
 だが、吉野鉄道の奈良盆地進出は同社にとって裏目に出たのではないか。橿原神宮前で吉野鉄道に接続した大軌は、経営状況の良い同社をわがものにしたいと考えたようだ。同社に並行する路線免許を武器に同社を圧迫し、昭和4(1929)年に合併してしまった。また、大軌とライバル関係にあった「大阪鉄道」もかねてより吉野鉄道との関係を深めており、大軌との合併直前に大阪阿部野橋〜橿原神宮前間を全通させて
図2 吉野川に形成された中州に設けられた野球場や陸上競技場(出典:国土地理院昭和22年撮影空中写真)
吉野鉄道との直通運転を始めている。 その大阪鉄道も後に大軌と合併し、現在は大軌が母体となって成立した近畿日本鉄道になっている。
長として吉野鉄道を率いた阪本 仙次は多能な実業家であったようだ。吉野川本流と派流に挟まれた土地を町から貸与を受け、大正15(1926)年に鉄道の付帯事業として「美吉野運動競技場」を創始した。阪神電鉄が甲子園球場を開設してからわずか2年後のことであった。
 日本陸上競技連盟公認の400mトラックとスタンドを有するスタジアムのほか野球場、相撲場、テニスコートなどを備えた総合運動場で、当時、日本三大陸上競技場の一つとされるほどに最先端の設備を有していた。またラグビー、サッカー、バスケット、バレーボールなどの施設があり、宿泊所も設けられていた。織田 幹雄、南部 忠平、人見
図3 美吉野運動競技場の名残りのプラタナスとその近くに掲示された説明板
絹江らのオリンピアンがここから巣立った。特に、女子スポーツの興隆に果たした役割は大きい。収容人員は1万人。 設計者は、後に花園ラグビー運動場の設計にも携わる中尾 保3)である。
 しかし、吉野鉄道が大軌に吸収されてからは本格的な利用が減少し、地域の運動会や競技大会などがここで開催された。第2次世界大戦中は戦技訓練の道場として使われた。
野が産する杉や桧は良質な建築用材として著名である。厳選された品質の木材を生産するために、1ha当たり8,000〜12,000本という通常の3倍近い苗を植え何度も間伐を繰り返す「超密植・多間伐」という方法が行われている。これを集大成したのは先に名前を挙げた土倉 庄三郎だ。
 吉野の木材は、筏に組んで吉野川を下り和歌山に送っていた。明治31(1898)年に刊行された「吉野林業全書」によると、槌や鑿を使って岩を切り開く工事を継続したので、宝暦年間(1751〜64年)には筏が使用できる範囲が上流の入之波(しおのは)まで達したという。 原木の加工や販売を県内で行うことが有益であるため、奈良県は昭和14(1939)年から中州南側の川を筏が通れるように改修して、
図4 工事中の貯木場と引込み線(出典:吉野町文化協会「ふるさと吉野 回顧写真集」)
図5 貯木場と引込み線(昭和42年測図国土地理院旧版地図(1/25,000 吉野山)に引込み線を補入(引込み線の情報は吉野町木のまち推進室に掲示の資料(ちょブック製作委員会 作成)による)
美吉野競技場の位置に陸上貯木場を、その下流に3つの水中貯木場を開設した。貯木場の木材は周辺に集積する製材所で加工された。これは、わが国の工業団地として極めて初期のものであり、大いに注目される。貯木場には吉野神宮駅から引込み線が通じており、同駅から吉野川橋梁を渡った用材や木工製品は、吉野口から国鉄線に乗り入れて日本各地へ送られた。吉野の製材業が伸びた背景には、産地から消費地まで一貫して輸送できるインフラの存在があったのだ。
 その後の貯木場について付言すると、昭和34(1959)年の伊勢湾台風で中の島が冠水し、水害対策として、中の島の南側の川は埋められ、中の島の北側を削り川幅を広げた。また、筏による搬入と鉄道による搬出はいずれもトラック輸送に置き換わり、水中貯木場は埋め立てられ引込み線は廃止されている。
 最盛期に比べれば少ないものの、現在も貯木場には38社が操業しており、神社仏閣や能舞台の桧材を挽く工場、建具材を柾挽きする工場、酒樽に使用する樽丸を製作する工場、端材を割り箸に加工する工場、
図6 吉野神宮駅に残る引込み線 図7 製材工場の間を走っていた引込み線の跡
製材過程で生ずるおがくずで活性炭を作る工場など、専門業者が有機的につながりながらまとまりのある工業団地を形成している。
在は木材が吉野川橋梁を渡ることはないが、吉野のもう一つの産業 観光業においては重要なインフラである。
 吉野山は古くからの観光地で、大正13(1924)年に当時の「史跡名勝天然記念物保存法」により史跡及び名勝に指定され、昭和11(1936)年には「吉野熊野国立公園」の一部に指定されている。また、平成16(2004)年には世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録され、吉野山とその南に展開する修験道の霊地が注目を浴びている。
 吉野山は桜の名所として知られる。天智天皇10(671)年、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山寺を開くとき、感得した蔵王権現を桜の木に刻んだことより、吉野では桜の木をご神木として保護してきた。「一目千本」といわれるが、実際には3万本の桜が吉野山を覆う。
表1 近年の吉野山への観光客数と鉄道旅客数
年(度) 吉野山への観光客数(人) 鉄道旅客数(定期外)(人) 鉄道分担率(%)
令和4(2022) 440,000 154,480 35.1
令和5(2023) 462,000 139,831 30.3
令和6(2024) 544,000 163,967 30.1
吉野町及び近畿日本鉄道の資料提供による。吉野町は「吉野山」、「吉野川周辺」、「津風呂湖」の3エリアに分けて観光客数を調べており、そのうち吉野川左岸にあたる吉野山エリアの値を登載した。鉄道旅客は吉野川左岸の吉野駅と吉野神宮駅を対象とした。

 「吉野町史 下巻」によれば昭和32(1957)年の観光客は20万人ほどということだが、近年は50万人ほどを記録している。吉野川橋梁は、この観光客の輸送を担ってきた。ただし、ここでも自動車嗜好が強まっているようで、鉄道分担率は30%くらいに低下している。観桜シーズンには、奈良県警は地元と協力して一方通行や通行禁止を含む厳しい交通規制を発して住民の移動の確保を図っており、公共交通機関による観光を推奨している。
稿で紹介する吉野川橋梁は、昭和3(1928)年の六田〜吉野間の延伸に際して架けられたもの。当初は六田からすぐに吉野川を渡る計画だったらしいが、上市町(当時)が駅を設置するように要望した結果、現在の位置で渡河することになったという。
 橋長は242.4mで、両岸に近い1〜3連と7〜9連はL=15.164mの上路版桁橋、中央部の4〜6連はL=45.72mの上路並行弦プラットトラス橋で構成されている。トラスの高さが9.3mと大きいのが特徴で、レール面は水面から約17.5mの高さにある。
図8 吉野川橋梁のプラットトラスのスケルトン
この雄大な景観が地域のシンボルとなっている。
 設計者は高知県出身の福田 良造とされ、駅舎などの設計を担当した岩崎 平太郎4)が師事した武田 五一の鑑定を受けて確定させたという (佐藤 博之・浅香 勝輔「民営鉄道の歴史がある景観U」(古今書院))。福田の経歴や他の作品などは現時点では不明である。トラスのスケルトンは独自のもの(土木学会「歴史的鋼橋データベース」http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/T5-082.htm)。
 施工は大林組である。図9を見ると、
図9 工事中の吉野川橋梁(昭和2(1927)年頃、大林組提供)
足場の上を移動する小型のゴライアスを使用してトラスを組立てている。同社は、淀川大橋(大阪市、大正13(1924)年)、堂島大橋(大阪市、昭和元(1926)年)を施工する中でゴライアスクレーンの前身というべき木製櫓を組み立てて脚部に車輪をつけて足場上を移動しながらトラスを組み立てる経験を積んできた。本橋に続いて取り組んだ澱川大橋(京都市、昭和3年)でいよいよゴライアスクレーンが登場し、きわめて短期間での施工を実現した。本橋の施工技術は、効率よくトラスを組み立てる
図10 夕刻に吉野川を渡る近鉄電車
ゴライアスクレーンを誕生させる技術プロセスの過程と位置づけられようか。
面を見下ろして渡る本橋は、吉野川に沿って遠くから眺望でき、景観上の重要なアクセントになっている。また、地域の発展に寄与してきた記憶とも相まって、地域のシンボルとして愛されている。夜に車内灯をともして吉野川を渡る電車はさながら銀河鉄道のようだ、というのが地元の評である。


1) 土倉 庄三郎は、吉野川上流の川上村大滝に生まれ、16歳で家業を継ぎ材木方総代に就いてまもなく起こった騒動を解決して林業家としての手腕を発揮する。木材を搬出する交通手段の整備に私財を投じて尽力し、木材流送の難所であった岩場を開削したり国道169号の前身となる東熊野街道を開設した。また、教育への投資も熱心で、同志社大学や日本女子大学の設立を支えた。58歳の時に刊行された「吉野林業全書」に林業技術を集大成し、天竜川(静岡県)、伊香保(群馬県)、塩津(滋賀県)など各地の山林で造林技術を指導した。

2) 阪本 仙次は、吉野の著名な林業家で、吉野鉄道のほか「吉野材木銀行」(1898(明治31)年)や
林業の改良発展を図る「財団法人 大和山林会」(1901(明治34)年)を創立し、奈良県議会議員にも選出されている。また、和歌を佐佐木 信綱に学んだ。家訓として人材の育成を重視しており、美吉野運動場の開設もそのひとつ。家系断絶後の旧本宅は長く「青少年図書室」として開放されていたが、老朽化に伴い閉鎖。吉野材木銀行の後裔である南都銀行の関連会社「奈良みらいデザイン」がリノベーションして宿泊施設やレストランなどの観光施設として再生している。別邸跡は、仙次の長男 猷(ゆう)が収集した和漢の典籍を保管する阪本龍門文庫となっている(右図)。

3) 中尾 保(明治27(1894)〜昭和38(1963)年)は、堺市に生まれ早稲田大学理工学部建築工学科を卒業後、大阪市立工業学校講師嘱託などを務めながら前衛的な建築家として活躍した。関西高等工業学校(現在の大阪工業大学)の創立に関わり建築学科長に就任するなど、教育者としての業績も無視できない。昭和26(1951)年には高石町長にも就任している。また、少年期から毎日新聞浜寺水練学校に学び、その後も学校に関与して亡くなる前年まで師範の立場にあった(橋寺 知子「財団法人富民協会農業博物館の建築について」による)。

4) 岩崎 平太郎(明治26(1893)〜昭和59(1984)年)は、吉野郡下市町に生まれ、郡立吉野実業学校を卒業後 京都府に雇用されて寺社修復工事に当たる。その過程で武田 五一、亀岡 末吉に師事した。大正10(1921)年に吉野に戻って吉野鉄道や吉野銀行の建築設計を担当し、併せて阪本 仙次の別荘である「白雲荘」などにも携わった。昭和6年からは奈良県の建築技術者となり、奈良県知事公舎、橿原神宮外苑の建国会館、旧制畝傍中学校校舎などを手掛けている。近代和風建築を得意とした。

(2025.09.11)