や ばせ
矢橋の渡し-近江八景に選ばれた湊の盛衰

復元整備された矢橋湊の3本の石積み突堤
 鉄道や自動車が発達するまでは、陸上交通に比べて少ない労力で移動が可能な水上交通に利があった。「矢橋の渡し」もそのひとつ。草津宿と大津宿の間を徒歩で行くよりも早くて便利だというので、よく用いられたという。本稿では、今に残る湊の遺構を手掛かりに、その姿を探ってみた。

「急
がば回れ」ということわざがある。急ぐときほど確実な方法をとるべきだというこのことわざは、室町時代の連歌師 柴屋軒(さいおくけん)宗長(そうちょう)が詠んだ「武士(もののふ)の やばせの舟は 早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」という歌に由来する。当時、草津から大津まで行くのに、徒歩で東海道を行くルートと矢橋の湊から舟で大津まで湖上を短絡するルートがあった。前者は、瀬田川を渡る所で唐橋まで南下しなければならず、約15km、3.5〜4時間を要した。後者は湖上を約4〜5km、1時間ほどで行けたと思われる。反面、舟便には比良八荒と呼ばれる強い風が吹いて風待ちをするリスクがあった。遠回りでも確実な陸路を選ぶことを宗長は推奨したのである。 宗長は駿河に生まれ、若いときは今川 義忠に仕え、義忠の死後は京都に出て著名な連歌師であった宗祇に学んでめきめき頭角を現した。その後、駿河に帰って再び今川家に仕えたが、
図1 江戸時代から明治初期における琵琶湖南部の航路
連歌の催しがあるとたびたび京都との間を往復していた。よって、大津に行くのにどちらのルートを採るべきか悩んだことも一度ならずあったのであろう。
長の時代には信頼性に欠けたらしい矢橋の渡しは、その後、格段の繁栄を見せる。そのきっかけとなったのは、豊臣政権下で浅野 長吉(後に長政と改名)が大津城1)を築いたことだ。それまでは、比叡山延暦寺の門前町として栄えた坂本が湖上交通の拠点であり、東岸では矢橋より3kmほど北にある山田や、さら に4kmほど北にある志那が重要だった。それが、大津城の開城によって経済の中心が大津に移ったことで、大津への最短距離となる矢橋の優位性が高まったのである。
 慶長5(1600)年、関ケ原の合戦に勝利した徳川 家康は矢橋から船に乗って大津に渡っており、以後、将軍が上洛する際には矢橋の渡しを利用するのが吉例とされた。そして、江戸幕府により五街道の整備が進められる中で、草津宿と大津宿の間については矢橋の渡しも街道に準ずるものとして公認される。すなわち、元和2(1616)年に矢橋の渡しの船賃が幕府により定められ、草津宿には隣接する石部・守山・大津の各宿に並んで矢橋までの、
図2 東海道からの分岐点に残る道標
大津宿には草津・京都・伏見に並んで矢橋までの人馬賃銭を記した高札が掲げられていた。このことから、矢橋が宿場と同様の扱いであったことがわかる。
 矢橋に向かう道が東海道から分かれる箇所に「右 やばせ道 是より廿五丁大津え船わたし」と彫った道標が建つ(寛政10(1798)年設置)2)。渡船に係る業者が誘客のために建てたものであるが、これを街道に建てることが許可されたところにも矢橋の渡しの位置づけが伺われる。
橋の渡しは、「急がば回れ」のことわざからの連想で旅行者が利用するものと思いがちだが、米などの物資の輸送にも活躍していた。矢橋には大名の蔵米はもちろん商人が扱う米も集まっており、これらの輸送は、宿屋や大名の蔵宿などを兼業する一部の大規模な船持ちが独占的に行っていたらしい。米の輸送は藩への運上金が免除されていたとされるので、米の輸送は旅人の渡しよりはるかに大きい利益をもたらしていた。
 ところが、寛文12(1672)年の西回り航路の開拓により、奥州・北陸方面の産物は下関を回って瀬戸内海から大坂に達しさらに紀伊半島を迂回して江戸に至るようになった。これにより琵琶湖の水運は全国的な流通経路の一角としての機能を失い、地域的なものへと変化していく。琵琶湖の水運は大きく減少した。矢橋の渡船業者は次第に困窮する。先に述べた道標の整備も、このような状況下で増客を図ったものと思われる。
図3 かつての山田港に面して建つ杉江 善右衛門の記念碑
また、人馬賃銭の増額を何度も訴えている。
 明治維新に伴い、幕府の権威によって支えられていた渡船の運営が解体され、琵琶湖水運は県の管轄となった3)。これにより、会社や個人が所有する船舶は自由に琵琶湖を航行できることとなった。
 矢橋の衰退にさらに拍車をかけたのが、山田〜大津間の汽船の就航だ。明治5(1872)年、山田の杉江 善右衛門(文政5(1822)〜明治18(1885))が山田港を修復し、大津の米問屋 谷口 嘉助は江戸時代に蔵屋敷であった地区の地先を埋立てて紺屋関に新たに港を整備し、両名が連携して旅客の渡船を始めた。9年からは合計3隻の汽船を導入して積極的に営業した。山田の隆盛に対応して矢橋では渡船の運行数を減便したため、湊での待合時間が急増し、急ぐ旅客は山田航路を
図4 谷口 嘉助の築港事業を顕彰する碑
使うようになった。矢橋はさらに乗客を減らした。
ていたときは「近江八景」4)のひとつに数えられた矢橋であったが、その後は琵琶湖の水位の低下により湊としての機能を失い、泥やごみに埋もれてしまっていた。そして、「琵琶湖総合開発特別措置法」(昭和47年法律第64号)にもとづく湖岸堤の整備により琵琶湖と切り離され、沖に「矢橋帰帆島」が埋め立られてかつての見晴らしもない。
 ここを公園にするため、昭和57(1982)年3月から発掘調査が進められ、かつての渡し場の様子が明らかになった。図5に示した3本の石積み突堤が姿を現し、その規模は、最も沖に突き出ていた突堤1の長さは90m以上あったようであり、それから約6m離
図6 姿を現した突堤2と突堤1の石積み(出典:参考文献)
図7 描かれた矢橋湊(出典:秋里 籬島「東海道名所図会 巻二(矢橋渡口場)」、国書データベース、国文学研究資料館所蔵)
図5 発掘された3本の突堤(出典:滋賀県教育委員会事務局文化財保護課「琵琶湖東南部草津川地域の湖底・湖岸遺跡 第1分冊本文編」)
れてほぼ平行する突堤2は長さ約30m、天端幅約3.6m、突堤2から約11m離れた所に先端を持つ突堤3は長さ約12m、天端幅約2mであった。周辺からは近世から近代にかけての陶磁器類や銭貨類などが見つかり、この遺構が近世に遡るものであることが分かった。なお、江戸時代後期の寛政9(1797)年に出版された「東海道名所図会」には、出土したものとよく似た突堤が描かれている(図7)。 現在は、突堤の石積みが復元整備され、標題の写真のような公園となっている。公園に隣接して弘化3(1846)年に建てられた高さ5.71m(うち基壇0.75m)の常夜灯(図8)が残されており、かつての繁栄を伝えている。
橋の対岸の渡し場は、大津宿にあった小舟入湊と隣接する松本村にあった石場湊であった。先に示した「東海道名所図会」も、矢橋は「大津松本へ一里の渡口なり」と、2つの湊を並列的に記している。
図8 矢橋公園に隣接して建つ矢橋湊の常夜灯
 だが、この2つの湊の関係はなかなかに複雑で、何度も争論があったらしい。幕府は矢橋湊と大津宿との間の渡しを許可していたのであったから、正式の渡し場は小舟入と考えるべきだろう。ところが、江戸時代の旅行記のかなりは、石場で乗下船したことを記録している。小舟入湊が東海道から少し離れていたのに対し、石場のあたりで東海道が湖岸線に接するので、石場湊の利便性が評価されたのかもしれない。
 両方に常夜灯が残されている。小舟入にあるのは文化5(1808)年に建てられた高さ5.4mのもので、基壇には京都の世話人、大津の船方中、小舟入茶屋中の名が記されている。石場の常夜灯は弘化2(1845)年に建てられた高さ8.4mの堂々としたもので、大津の船持中のほか京都・大坂・
図9市街地の中に残る小舟入湊の常夜灯 図10湖岸に移設されている石場湊の常夜灯、もとは大津警察署の位置にあった
名古屋の船仲間の名が刻まれている。石場の常夜灯の方が規模が大きく、関係者が広範囲に及んでいることから、物資輸送も含めて石場が多く利用されていたことが伺われよう。
 小舟入湊と石場湊が並立していたことについて、両者の規模の小ささが影響していたと筆者は考える。石場湊については「東海道名所図会」に「松本渡口場」という名で紹介されており、湖に突き出た1本の突堤が描かれている。が、湊の規模は複数の突堤を持つ矢橋よりかなり小さいように見える。もうひとつの小舟入は、明治13(1880)年に湖岸に築堤して敷設された鉄道(京阪電鉄石山坂本線に踏襲されている)
図11 描かれた石場湊(出典:秋里 籬島「東海道名所図会 巻一(義仲寺 芭蕉塚 松本渡口場)」、所蔵は図7と同じ)
が支間長6.0mの橋梁で小舟入川を渡っていることから、約6m幅の水路を持つ掘込み型の湊であったと考えられる。この水路幅は矢橋湊における突堤1と突堤2の間隔と一致しており、小舟入湊では水路の両岸に着船したと思われるが、常夜灯の位置から勘案して水路延長はせいぜい50mであったと考えられ、やはり矢橋湊より小さかったようだ。
戸から大阪、京都と延伸されてきた鉄道がさらに東に伸びて琵琶湖畔の大津に達したのは明治13(1880)年のことだった。当時はここから長浜まで船舶で連絡することとされた。これで大津が鉄道輸送と水上輸送の結節点として栄えるかと思われたが、早くも22年には鉄道は中山道に沿って米原まで達し、米原以東で建設が進んでいた鉄道とつながって現在の東海道本線が全通した。同じ22年には、関西鉄道が草津から東海道に沿って走る鉄道を開業した5)。こうして、草津に集まっていた人貨は鉄道輸送にシフトすることとなった。
 鉄道が開通してしばらくの間は、鉄道運賃が高額だったので舟運もそれなりに利用された。だが、鉄道網が発達していくにつれて舟運の利点は薄れていき、やがて琵琶湖の水上交通は観光・遊覧事業に重点を移していくのである。

(参考文献)
草津市史編さん委員会「草津市史 第2巻」

1) 天正14(1586)年ころに現在の浜大津付近に築かれた城で、発掘調査により石垣が確認されている。慶長5(1600)年の関が原合戦を徳川 家康が率いる東軍の勝利に導いた大津籠城戦は有名。合戦後、城の天守閣は彦根城に移築され、その他の部材は膳所城として再生した。また、余った石で矢橋湊の舟着場などを整備したと伝える。

2) この道標は古くからあったようだが、享保15(1730)年に高さ5尺(約1.5m)のものに建替えられ、さらに寛政10(1798)年に矢橋船持惣代が高さ6尺6寸(約2m)のものに建替えた。これが現存している。

3) 県令 松田 道之は、琵琶湖の水運の発展を希求し、汽船の建造・就航を奨励した。この結果、汽船会社が乱立して熾烈な競争を繰り返し、ボイラーの破損や過積載による事故が多発するに至った。この弊を収拾するため、明治15(1882)年に太湖汽船が創設されて各社の糾合が図られた。これが現在の琵琶湖汽船のルーツのひとつ。

4) 近衛家17代当主 三藐院(さんみゃくいん)信尹(のぶただ)(永禄8(1565)〜慶長19(1614)年)が、慶長年間に中国瀟湘八景にならって琵琶湖周辺の景勝の地を選んで発案したとする説が有力である。石山秋月、勢多夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、三井晩鐘、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪の八景をいう。

5) 草津を終点とした関西鉄道は、一時は、草津から山田まで路線を延長し、そこで舟運に連絡して湖上と琵琶湖疏水(明治23(1890)年竣工)で京都に至る交通路を考えたこともあった。しかし、それよりも柘植から大阪に向けて路線を敷いた方が得策と判断して、山田への延伸は断念している。
(2025.05.29)