こ ぶ な と
小舟渡橋−愛されて100年を迎えた鉄橋

2連の異なるプラットトラスから成る小舟渡橋
 福井県史によると、九頭竜川には天平勝宝7(755)年頃に「久米田橋」が現在の鳴鹿のあたりに架かっていたそうだが、いつしか途絶え、渡し舟が行き来するようになっていた。九頭竜川に本格的な架橋の必要性は高かったが、流れの速さからその実現は容易ではなかった。本稿では、九頭竜川中流に架かり、県が管理する最古の橋として知られる「小舟渡橋」について、架橋までの経緯と現状を調べた。

大
野と並んで奥越地方を構成する勝山は、中世末期までは袋田という地名であり、白山平泉寺の勢力下にあった。天正2(1574)年に一揆をおこした一向宗徒がその拠点とした村岡山を勝山と称したのを始まりとする。天正9年に柴田 三左衛門が袋田に城を築くに当たり、勝山の名を吉兆として勝山城と名づけたことから勝山が地名として定着した。その後、朝倉 義景、柴田 勝家、丹羽 長秀と領主が目まぐるしく変わり、江戸時代に越前に入封した松平氏により勝山藩が立藩された。
 福井と勝山を結ぶ道路は勝山街道と呼ばれ、およそ26kmの距離があった。福井から九頭竜川の左岸を約20km進んで藤巻(現在の吉田郡永平寺村藤巻)まで達すると、山塊が河岸に迫って断崖となっているため、ここで対岸の森川(現在の勝山市北郷町森川)に渡って勝山に達した。九頭竜川は流れが速く減水期でも3mほどの水深があったため、徒歩で渉ることができず5〜6人乗りの小舟で渡していた。小舟渡の渡しである1)。この渡しは森川村の笠松 清左衛門が行なっており、料金を取らない安全な渡しとして評判がよかった。舟5隻、船頭22名を抱え、その代償として米4石2斗(約630kg)が下付されていたが、それではとても足りず村人が勝山・福井両藩下を奉加に回ったという。
 ただし、九頭竜川が増水すると舟留めになった。そうなると、勝山から福井に向かう人は、
図1 小舟渡橋の位置
引き返して出直すか下流まで右岸側を歩いて水が引くのを待って川を渡ることができたが、逆に福井から勝山に向かう人は、藤巻の茶屋や宿屋に泊まり込んで水が引くのを待つしかなかった。
明
治15(1882)年、ここに舟橋が架けられた。舟橋とは、鎖でつないだ小舟を水面に並べ、その上に板を敷いて通行に供するものだ。
 その頃、勝山では葉煙草や織物の生産が急増し、これら産物を馬車や荷車で出荷していた。しかし、渡し舟では積み替えが必要であり、貨物量の増大に対応できなくなっていた。一方、下流の森田では、早くも天正6 (1578)年に舟橋が架かっていた(柴田 勝家が刀狩りの後に作らせたという伝承を持つ)2)。笠松は勝山県(勝山藩は廃藩置県で勝山県になっていた)に小舟渡も舟橋にするよう陳情を重ねたが、費用が大きいということで却下されていた。折しも、森田の舟橋が木橋に架け替るといううわさを聞いた笠松は、その鎖を譲り受けるよう交渉し、各方面からの寄付も募ってようやく小舟渡にも舟橋が実現したのだった。全長57間(約100 m)、幅員9 尺(約2.7m)であったと記録されている(参考文献2)。県は、舟橋が架かったのを機に、徒歩2銭、荷車5銭、馬車10銭の料金を徴収してそれを番人の賃金や増水時の修復費用に充てることとし、管理は引き続き笠松が担うこととした。
 しかし、小舟渡の舟橋には大きな誤算があったことが次第に判明してきた。すなわち、下流の森田では川幅が広く流れが穏やかで多少の増水でも橋面への影響は生じなかったのに対し、中流の小舟渡ではもともと流れが速いため少しの増水でも橋が危険になったのである。そのため、川留めは従来の渡しと変わらず頻発した。通行手形が不要になって一般の通行者が増えたこともあって、藤巻では足止めされた旅客を収容しきれなくなり、軒下に野宿する者が現れるなどした。県は、渡河料を廃止し、直接に管理することとしして対応したが、小舟渡の評判は悪いままだった。  舟橋に替えて本格的な架橋を架設することは福井県会でも検討されており、明治40(1907)年の県会で工事期間4年、工事予算4万5千円が可決された。人々は小舟渡橋の架設は間違いないと確信した。ところが、折からの汚職事件とも相まってこの案は年末の県会で否決されてしまう。架橋予算は、そっくり電気鉄道建設費補助に回されることになった。
 その電気鉄道というのは、大正3(1914)年に新福井駅から勝山駅を経て大野口駅まで開通した「越前電気鉄道」3)(現在のえちぜん鉄道勝山永平寺線)である。同社の路線は福井からほぼ勝山街道に沿って東進していたが、費用のかかる橋梁を避けて小舟渡駅から先は山肌を掘削して敷設し、
図2 小舟渡駅付近を走る越前電気鉄道の電車、右に舟橋が見える(出典:参考文献3)
勝山の市街の対岸に勝山駅を設けた。福井と大野の間は2時間半を要し、乗客数は年間43万人、輸送貨物は1.7万t近くにのぼったという(参考文献3)。
 旅客・貨物のかなりの部分は鉄道が分担することとなり、小舟渡舟橋の交通事情は一変した。勝山街道の隘路解消という課題は消滅し、鉄道から取り残された右岸地域から鉄道駅へのアクセス確保というローカルな課題となった。しかも、勝山において駅と市街地を結ぶ橋梁の必要性が高まるという強力なライバルも現れることになった。
一
方で、電気鉄道により追い風となる事象も現れた。それは同社が開業の翌年(大正4(1915)年)に小舟渡に開設した遊園地であった。電気で沸かす浴場、能楽堂、旅館、観音堂、売店などがあったほか、山頂付近には白山連峰や三国海岸を望む展望広場があった。景観と温泉と料理を楽しむ場所だったようだ。特に電気風呂は人々を驚かせたという。このころ、電気の普及により勝山の繊維産業は生産が動力化されて非常な活況を呈しており、にわか成金が何人も現れていた。彼らは小舟渡遊園地で遊び、芸者が奏でる三味線や太鼓の音が毎夜鳴り響いたという。また、電鉄会社は中学校の水泳訓練を誘致したり、観音堂の行事である四万六千日の日に福井県で最初の花火大会を挙行して大いに人気を呼んだ。電車は満員の乗客を運んだ。
 小舟渡に関係する村々はたびたび架橋の請願を繰り返していたが、4年の県会で「遊園地もでき、往来が盛んになったので、近じか」という答弁を引き出し、架橋の機が熟していることが察せられた。そして、6年になって7 年度から3ヶ年で5万1,205円(地元寄付金1,500円)が議決された。しかし、地質調査に手間取る間に第1次世界大戦に伴う物価騰貴があり、県会では予算の追加と併せて橋梁を木橋とするか鉄橋にするかが議論された。県は財政等の事情から木橋にしたいとの意向を示したが、白熱した議論の末に鉄橋とすることに決定した。こうして作業が開始されたが、工事の進捗は予定より遅れ、大正12(1923)年9月にようやく竣工を迎えた。工事費は
図3 小舟渡橋と九頭竜川右岸の水泳場(出典:参考文献3)
14万3,000円になっていた。鉄橋というのはたいへん珍しく、遠方から見物に来る人もあり、小学校の遠足の目的地にもなった。なお、舟橋も珍しいものとして架橋後も残された。遊園地と併せて観光資源とされたようだ。
 架橋により遊園地はさらに繁盛し、対岸にも水泳場が設けられたほか、河川敷きに北陸随一と言われた運動場が整備されて庭球、野球、競馬などが行なわれた。小舟渡橋には電燈がともされ、それが水面に映って幻想的な光景を呈したという。しかし、第2次世界大戦後は、各地に観光施設が作られて、小舟渡遊園地は陳腐化していった。昭和38(1963)年に電気風呂を廃してかまぶろ温泉に切り替えたが、徐々に減少する客には抗しきれず、遂に平成14(2002)年に閉園になった。
小
舟渡橋は、補修補強工事は施されてきたが、おおむね竣工時の姿を現在も保っている。橋長は220.44m、
 図4 小舟渡橋の側面図(橋梁台帳による)
幅員は3.96m4)であり、上部工は左岸側から下路式曲弦プラットトラス5)(L=62.82m)+下路式並行弦プラットトラス(L=29.1m)
+単純非合成H型鋼橋(L≒9.1m)14連という構成である(図4)。自動車が増えるにつれこの幅員では円滑な交通が困難になってきたので、昭和44
(1969)年に本橋の約1.1km下流に「市荒川大橋」(L=335m、W=8m)が架けられた。小舟渡橋がそれまで果たしてきた重要な役割はこちらに移り、
図5 小舟渡橋左岸に建つ「架橋記念碑」
今では左岸側に建つ「架橋記念碑」が本橋の歴史を物語っている。
 部材はリベットで接合されている。管理者である福井県奥越土木事務所は、本橋が架設から100年を迎えるに当たり点検と補修工事を行った。鋼材の補修が必要な箇所では、リベットの凹凸のために通常のあて板ができないことから、FRP6)シートを使用するなどの新技術を導入した。また、伸縮装置がなかったために漏水で桁の劣化が進行するので、伸縮目地を施した。高欄など付属施設も含めてトラスの従前の塗色と同じ乳白色に塗装し、周囲に溶け込んだ穏やかな景観となった。
 架橋100年に当たる令和5(2023)年に、現在は永平寺町になっている旧上志比村の住民らが「小舟渡ものがたり」(参考文献1)という冊子を作成して小舟渡橋の歴史を記録した。
併せて、両岸の地区の住民が橋上で記念式典を挙行し、磨き直した橋名板を除幕するなどした。
 地域に愛されてきた小舟渡橋。本橋がこれからも
地域とともに歩み続けていくことを願う。



図6 100年を機に磨き直された橋名板(左)とそれが取り付けられているトラス橋のポータル(右)



(参考文献)
1 上志比学勉強会「小舟渡ものがたり」
2 勝山市「勝山市史 第三巻」
3 石蔵 信博ほか「目で見る奥越・高志の100年」(郷土出版社)
4 福尾 尚也「小舟渡橋の歴史と補修工事について〜竣工100周年を迎えます〜」(福井県建設技術協会「福建」第56号(2023年)所収)

1) この渡しの歴史は古く、大永4(1524)年の史料に九頭竜川の渡しのひとつとして「こふなと」の記載があるという。

2) 寛政10(1798)年に書かれた「三州志」には、伝承より古い建武2(1335)年にすでに舟橋があったと記されている(https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/kasen/siryou/hen1/ 1syou5/2kasen3.html)という。また、江戸中期に福井藩士村田 氏春が越前の歴史と地理について著述した「越藩拾遺録」では「川幅105間、橋長120間、鎖520尋、舟48艘浦々より出す」と書かれている。現在も福井市に舟橋の地名が残る。。

3) 福井県で電源開発を行っていた「京都電燈」の手により開業した鉄道で、配電統制令により解散することになった同社の鉄軌道事業を昭和17(1942)年に「京福電気鉄道」が継承して福井支社の越前本線となった。しかし、京福電気鉄道は平成12(2000)年と翌年に相次いで列車衝突事故を起こし、国土交通省中部運輸局から全線の運行停止を指示された。独力では安全運行を確保できないとして、平成15(2003)年に福井県と沿線市町村が出資する第三セクターである「えちぜん鉄道」に事業譲渡された。

4) 大正8(1919)年に制定された道路構造令では、府県道や主要な市道の幅員は3間(約5.45m)以上、主要な町村道は2間(約3.64m)以上と規定されているところであり、本橋がこの幅員で整備されたのは3間以上にすると工事費が高額になることが考慮されたのではないかと考えられている(参考文献4)。

5) トーマス・プラット(Thomas Willis Pratt、1812〜1875年)が1844年に特許を取得したトラス形式で、斜材が中央に向かって下向きに配置されている。斜材に引張力、垂直材に圧縮力が働くのが特徴。

6) FRP(Fiber Reinforced Plastics)シートとは、紫外線硬化樹脂をガラス繊維で強化した薄いシート状の補修材。補修・補強のほか防錆・防食・防水目的に用いられる。
(2026.10.26)