た つ が い け
龍ケ池揚水機場−扇状地を豊かな郷に変えた動力式地下水揚水施設 |

現在も稼働する龍ケ池揚水機場のポンプ室 |
| 扇状地は河川が山間から平地に出たところに発達する地形で、砂礫が堆積するため地表の水は地下に浸透して伏流する。そのために水田を営むには用水の確保が課題となるが、この問題を地下水を動力により揚水するという方法により解決したのが、本稿で取り上げる龍ケ池である。令和3(2021)年度から4年度にかけて行なわれた町史編さん調査において詳しく調べられた成果を紹介したい。 |
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ケ池揚水機場は、犬上郡豊郷町石畑にある。豊郷町のうちでも国道8号の沿線は琵琶湖に続く平野であるが、石畑は犬上川が形成した扇状地に位置する。そのために地表を流れる水に恵まれず、
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図1 龍ケ池揚水機場の位置(国立研究開発法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センターが提供する地質図に補記) |
たびたび水不足に苦しんできた。豊郷という地名は、明治22(1889)年にこの地が豊かになることを願ってつけられたもののようで、その内実には旱魃との苦闘の歴史が反映されているのである。
犬上川の左岸の甲良町金屋付近にある一ノ堰から水を引く長距離水路の開発は古墳時代に遡ることができるといい、石畑もこれに頼っていた。だが、得られる水は十分ではなく、これを複数の村が互いの水利用を監視しながら利用していた。個々の農家は、村の統括のもとで時間を区切って交替で引水した。これを御番水(おばんみず)と呼ぶ。豊郷小学校旧校舎群の一室に合子(ごし)と呼ばれる木桶が残されているが、これに水を入れて底に開いた小さな穴から落ちるまでの時間を計るのに用いたものだ。その時間は約7分で、
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図2 御番水に使われた合子 |
この間に10反(約0.99ha)の田に水を引き入れるのが慣例だったという。少ない水を分け合っていたことが伺われる。
不足する水は、田の一角に井戸を掘って撥ね釣瓶1)で地下水をくみ上げていた。重石の助けがあるとはいえ、重労働であった。浅井戸は水溜めが少ないので、1日に何回にも分けて水揚げしなければならず、農民が他の作業などに就くことの妨げとなった。
しい水利慣行があっても、ひとたび渇水になれば上流の村が優先的に水を取ってしまい、下流の石畑はどうしても不利にならざるを得ない。このような状況下で明治42(1909)年に大干ばつが起こった。7月から8月にかけての約40日間にわたって雨が降らない日が続いたのだ。石畑の人々は、隣接する四十九院と協議して、それぞれが蒸気機関を動力とするポンプで井戸から地下水をくみ上げる施設を設けることを考えた。両地区から選任された6名の発起人と伊藤 長兵衛村長は、県庁を訪れて揚水事業の計画を説明した。県は、間部 彰技師を調査のために派遣するとともに、耕地整理組合を設立して事業を進めるよう指示した。しかし、この事業は一部の専門家からは懐疑的に見られていたという2)。一方、豊郷の古老は、この地には豊富な地下水があると信じて事業を応援した。
耕地整理組合の認可は湧出量を確かめてからという条件であったので、その試掘調査を兼ねて12月6日に掘削工事に着手した。一方で、まだ組合の認可を得ていないにもかかわらず、世界で最も優秀なポンプをイギリスのW.H.アーレン(Allen)父子商会から購入することも、同月23日に契約した。
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図3 工事途上に行なわれた第1次湧水量試験(出典:参考文献2) |
翌年の田植えまでに完成したいとの強い思いがあったからだ。以後、井底の浚渫に努め、43年1月には郡内から借りた手押し消防ポンプ11台などを用いて湧水量試験をしたところ、ポンプの能力が不足するほどに湧水し、3月に大阪から8馬力の蒸気機関と口径5吋(約12.7cm)のポンプを借りて2度目の試験をした。この成績から揚水計画を策定して、耕地整理組合の設立を申請した。
工事主任として尽力した村岸 峯吉氏の談話(参考文献1)によれば、工事は延べ1万人におよぶ農民の手によったが、果たして灌漑施設として使えるかどうかも不安がある状態で、とにかく工事を進めながら資金や資材の調達に奔走し、
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図4 完成した第一枠、木杭を土留めとし背後に栗石を詰めていると思われる(出典:参考文献2) |
手探りで当座の設計をしつつ完成に向けて導いたということである。43年6月4日にはポンプが据え付けられた。試運転を経て27日から灌漑水の使用を開始した。起工からほぼ6か月、日に夜を継いでのスピード施工であった。
日照りに雨を降らせるという八大竜王にちなんで、井戸は「龍ケ池」と命名された。この時点で構築されていた井戸の部分を「第一枠」と呼ぶ。井底は地表から約8.3mの深さであったと思われる(参考文献2のP21とP50の情報を総合)。
その後、地下水位の下がる冬になって工事が再開され、第一枠の内側をさらに深く掘削した(この部分を「第二枠」と呼ぶ)。参考文献2によれば、井底は地表から約10.9m下まで達したようだ。併せて、石垣を組むなどの工事が行われて、44年3月に水源井戸と揚水機設置を内容とする耕地整理第1期工事は竣工した。道路や溝渠の改修を内容とする耕地整理第2期工事は44年12月に起工し、すべての工事が竣工したのは大正2(1913)年3月だった。
竣工式は、四十九院の揚水施設と合わせて同年11月 2日に盛大に執り行われた。報告書によれば、龍ケ池揚水機場に要した工事費は、水源池開削費790円12銭7厘、汽機汽缶ポンプ購入並に据付費8,743円36銭8厘、水路新設及び改修費617円52銭、合計10,308円94銭5厘と記録されている。ポンプが高額だったため、当初予想の2倍以上に膨らんだという。その原資となった収入は、受益農家が面積に応じて負担する組合費1,154円42銭、銀行借入金1,431円7銭8厘、県からの交付金9,240円3銭9厘となっており、交付金が多くを占めている。
水機場が完成するや、間部技師は池の写真をアメリカのシカゴ大博覧会に出展した。また、各府県にパンフレットを配ったので、全国から視察団が訪れるようになった。村内の水に恵まれない地域はもとより、県の内外で水源池を掘削して揚水機を据え付ける事業が相次いで着手された。そして、同年、「富山県主催連合共進会」に揚水機装置の模型などを出展し、「独りその地域における水稲の栽培を安全ならしむるのみならず、範を他に示して世を益すること多大なり」との主旨で農商務大臣から一等賞金杯を授与された。これにより、揚水機場の名声はさらに高まった。
地下水を灌漑に使用することは古来から各地で行われていたが、人力による汲み上げは多大な労力を要するものであった。ここに機械力を導入したのが本事業である。地下水について未解明なことが多かった当時において、湧水試験を行う前の地下水位や湧出量が不明な状態でポンプを発注するなど、事業の進め方は独断的と非難されるのは避けがたい。組合員から異論が出た時も強引に押し切っているようだ。公共事業の進め方を心得ている土木課長が批判的であったのも当然と思われる。これらのマイナス要素がありながらも多大な恩恵を与えることができたことについては、ひとえに結果オーライというべきか。
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図5 鋼材で補強されている現在の第一枠 |
の後、龍ケ池揚水場は設備機器を更新しつつ今日まで運用され続けている。
大正13(1924)年に石畑で起きた大干魃では、さしもの龍ケ池揚水機場も水がかれてしまった。そこで、井底に鉄管を打ち込んだところ水を得ることができたので、これを踏まえて第二枠の内側をさらに掘り下げて増築枠を形成した。井底の深さは地表から11.9mになったと思われる3)。井戸は、第一枠が2間(約3.64m)四方、第二枠は1間半(約2.73m)四方と記録されている。現在もほぼ同じ大きさと見られるが、鋼製の枠で補強されている。
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図6(1) 昭和10(1935)年の龍ケ池揚水機場(出典: 豊郷町教育委員会事務局社会教育課「豊里の絵はがき−昭和10年の村の風景−」) |
図6(2) 龍ケ池揚水機場ポンプ室の現況 |
標題の写真で「龍ケ池」の表示が掲げられた建物がポンプ室で、もとは池に面した開口部があったが(図6(1))、現在は板壁で閉じて窓が設けられている(図6(2))。その下の基礎部分は、もとは煉瓦であったが、現在はモルタルで被覆されている。また、ポンプの更新に伴って吸込管が付け替えられていることがわかる。
当初のポンプはコンケロル(Conqueror)渦巻ポンプであった(図7)。羽根車を勢いよく回転させることで水に遠心力がはたらき、上方に吐出する構造である。羽根車は、ボイラーで発生した蒸気で動くエンジンと直結していた。ボイラーは国産であった。ボイラー室は標題の写真でポンプ室の背後に写っている建物である。
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図7 開設時に導入されたポンプ(豊郷小学校旧校舎群での展示) |
なお、蒸気機関のポンプは大正12(1923)年に電力で稼働するものに置き換えられている。大正6(1917)に近江水力電気豊郷変電所が設置され(10年に宇治川電気に移管)、以後、豊郷でも電気の使用が一気に進んだことによる。
ボイラーの排煙を処理していた煙突は高さ52尺(約15.8m)と記録され、うち14尺(約4.2m)は煉瓦製の基礎であった。煙突管はおそらく電化のタイミングで撤去されており、この基礎とボイラー室を結ぶ煉瓦製の煙道が残っている。煙突の基礎は先すぼまりになった八角形で、頂部は焼き過ぎ煉瓦で装飾されている(図8)。イギリス積みを基本とし、八角形の角の部分は煉瓦の長手の面を削って135°の鈍角を形成している。また、側面には「タツガイケ」という文字がはめ込まれている。
の遺構の価値が詳しく認識されたのは、
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図8 煙突の基礎部分と煙道の現況 |
令和3(2021)年度から4年度にかけて行なわれた町史編さん調査においてであった。林
倫子関西大学准教授を中心に、レーザースキャンにより点群データを取得して現況を正確に図化する調査、石畑区に残された大量の文書や図面を整理して揚水機場の当初の姿やその後の改修履歴を把握する調査などが行なわれた。その成果をとりまとめたのが参考文献2で、自然に湧き出る地下水を貯留してポンプでくみ上げるという機能が建設当初から継続してきたことが示された。
この調査がきっかけで、揚水機場の存在が広く知られるようになり、令和6(2024)年には
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図9長手の面を削って八角形を作っている |
図10 煙突の側面にはめられた文字のひとつ |
世界かんがい施設遺産への登録も果たした。揚水機場を管理する石畑区の水利組合では、永年にわたって使い続けてきた揚水機場の歴史的価値を守りたいとしつつも、改修費用の問題や営農への影響を心配していた。豊郷町が主催する改修方法検討委員会では、費用をなるべく抑えながら今後100年以上も利用し続けられる案として、腐朽した松枠の内側に新たな枠を設けることによりオリジナルな松枠に手を加えることなく池を機能させる方法が示された。今年の非灌漑期から工事にかかる予定である。
龍ケ池揚水機場に続いて建設された多くの揚水機場では、井戸の腐朽からこれを埋めた状態で揚水している例が見られる。これらは、原形を留めていないものの、先人が苦労して作られたものであることには変わりなく、豊郷の水利事情と農業の発展を記録する遺産であるので、龍ケ池揚水機場とともに地域のまちづくりに活かしていくことが模索されている。
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図11 登録有形文化財になっている豊郷小学校旧校舎群 |
図12 1階にはうさぎとかめがいるがうさぎは途中で休んでしまい3階まで行き着くのはかめだけだったという寓意に満ちた造形 |
郷町を訪れたら、この機会に見学していただきたい施設がいくつかある。
その筆頭は「豊郷小学校旧校舎群」だ(図11)。石畑出身の実業家 古川 鉄治郎(明治11(1878)〜昭和15(1940)年)が資金を寄進した。ヴォーリズ建築事務所の設計で、昭和12(1937)年に完成した当時は「白亜の教育殿堂」と呼ばれた。理科教育に力を入れてきたことで知られる。最近では、数々のアニメやドラマなどの舞台になったことで有名だ。一時は取り壊しが検討されたが、住民の運動により存続が決定。平成25(2013)年には国の有形文化財に登録された。現在は町立図書館や子育て支援センターなどの複合施設として利用されており、業務に支障のない範囲で自由に見学ができる。
おもしろいのは、階段の手すりにうさぎとかめの造形がしつらえてあることだ。豊郷町教育委員会によればこの発案者は全く不明ということだったが、
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図13 旧中山道に面する「伊藤忠兵衛記念館」 |
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図14 薩摩治兵衛記念館になっている豊郷尋常高等小学校 |
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図15 豊郷出身の偉人を顕彰する「先人を偲ぶ館」 |
筆者としては丸紅の専務にまで昇進した古川が学童に授けたメッセージが込められていると見たい。 古川のほかにも豊郷はすぐれた近江商人を輩出している。古川が勤めた丸紅と伊藤忠商事の創業者 伊藤 忠兵衛も豊郷の出身だ。初代が暮らし2代目が生まれた旧邸が「伊藤忠兵衛記念館」として公開され(図13)、繊維品の行商から総合商社へと発展した足跡を紹介している。
石畑に隣接する四十九院には「薩摩治兵衛記念館」という施設がある。豊郷小学校に先立つ「豊郷尋常高等小学校」の本館で(図14)、明治20(1887)年の建設。平成19(2007)年に国の登録有形文化財になり、耐震補強工事を経て(2019)年に建築時の姿に復した。薩摩 治兵衛は、天保元(1830)年に四十九院の貧農に生まれ、丁稚奉公から苦労の末に一代で成功し「木綿王」と呼ばれるまでの豪商となったという。しかし世界恐慌により廃業を余儀なくされている。
薩摩治兵衛記念館に隣接して「先人を偲ぶ館」がある(図15)。薩摩治兵衛のほか、豊郷に生まれた偉大な先人(伊藤忠兵衛・古川鉄治郎・伊藤長兵衛・北川嘉平・藤野喜兵衛・村岸峯吉・碓居龍太)の遺品や生い立ち、業績が展示されている。
(参考文献)
1 滋賀県犬上郡豊郷村史編集委員会「豊郷村史」
2 豊郷町教育委員会事務局社会教育課「龍ケ池調査報告書」
1) 支点でささえられた横木の後端に重石を取り付け、 前端の釣瓶を上下させて水をくみ上げる装置。一般的には高さ3mほどの支柱を持つものが多いと思うが、石畑に残されている古写真(右図)には高木を利用した大規模な撥ね釣瓶が記録されている(出典:参考文献2)。
2) 参考文献1には、県の土木課長が「この事業はきっと失敗する」と放言するなど非協力的であったとの逸話が収められている。
3) 令和3(2021)年から翌年にかけて行われた実測(参考文献2)では11.7mと測定されており、現在は少し埋まってしまっている可能性があるという。
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