今井町−甦った中世以来の街並み |

復元された環濠に影を落とす今西家住宅) |
| 橿原市今井町は、中世から近世にかけての街並みが保全された地区である。東西約600m、南北約310mの地区内にある1,500棟近い民家のうち500棟ほどが伝統的建造物であり、平成5(1993)年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。今井町の景観的魅力を探ってみた。 |
|
|
|
|
|
井の地名が文書に現れるのは至徳3(1386)年で、この頃は周囲に堀を巡らせた農村で、興福寺一乗院の荘園であった。天文2(1533)年に一向宗の道場が建てられ、永禄年間(1558?1570年)に道場を中心とする寺内町が形成された。永禄11(1568)年に織田
信長が上洛すると、今井郷は信長の支配に反抗し、周囲にめぐらした堀を強化し、各所に突き当たりや食い違いをつけて遠見や弓矢、鉄砲の射通しを不可能にする町割をして攻撃に備えた。
信長との争いは天正3(1575)年に終結するが、信長は武装解除を条件に「萬事大坂同前」として自治権を認めた。これを機に、今井郷は地内町から商業都市へと性格を変えて発展していく。今井郷の自治は江戸時代になっても継続し、「大和の金は今井に七分」と称される繁栄であった。幕府から独自の紙幣である「今井札」の発行もが許されるほどで、金物、菜種油、酒造業などを中心とした商業活動により商人たちは莫大な富を蓄積した。
|
 |
|
図1 中世以来の筋違い道路と環濠を残す今井町(大正11年測量「櫻井」(1/25,000)に横大路と下ツ道の文字を加筆) |
現在も残る重要文化財建造物の多くはこの時代に建てられたものだ。当時の商人の財力と美意識の高さを物語っている。
今井郷の北にある横大路を西に向かえば竹内峠を越えて堺や大阪に至り、東へは伊勢に通じている。今井郷の東には奈良と飛鳥を結ぶ下ツ道(中街道)が南北に通ってその先は吉野に通じている。このような交通上の利便性が当地の商業を支えたと考えられる。
稿で紹介する今井町は、近鉄橿原線八木西口駅から徒歩で3分ほどのところにある。赤い高欄の蘇武橋を渡ると、そこに伝統的な街並みが現れる。この街並みの価値が初めて認識されたのは、昭和30(1955)年に東京大学の工学部建築学科による民家調査だった。この結果に基づき、倒壊寸前だった今西家(標題の写真)が32年に重要文化財に指定されたのを始め、7件の古民家が重要文化財に指定されている。
この時期、街並みの保全に熱心だったのは主に研究者や行政で、生活環境の近代化を希望する住民には違和感が強かった。その中で、今井町の街並みが失われていくことに危機感を覚えて保存の声をあげたのは、今井町の中心的寺院である称念寺の住職であった今井
博道氏だった。
|
 |
|
図2 無電柱化された本町筋の街並み |
その後、地区を貫通する予定だった2本の都市計画道路が市の英断により廃止されて、街並み保存の契機が開かれることとなった。
文化庁が昭和50(1975)年に文化財保護法を改正して重要伝統的建造物群保存制度を制定した時、念頭には今井町の街並み保存があったとされる。しかし、現実は一筋縄では行かなかった。指定されれば一般的な家屋への建て替えができず古い家に住み続けることを余儀なくされ、経済的にも不利益を被るのではないかと考える住民がいたからである。保存を推進する住民と再考を求める住民との間で粘り強い話し合いが続けられ、18年の歳月をかけて指定についての総意が形成されるに至った。
|
 |
 |
 |
|
太格子(大和格子) |
くぐり戸を設けた大戸 |
駒繋ぎ |
|
 |
 |
 |
|
虫籠窓 |
漆喰壁に描かれた紋 |
煙出し |
|
図3 今井町の伝統的商家の景観的特徴 |
この間の経緯は参考文献1に詳しい。
在は重要伝統的建造物群保存地区内に9件の重要文化財(図4)、3件の県指定文化財、5件の市指定文化財があり、これらの優れた建造物が地区の歴史的価値を高めている。
今井町の伝統的な商家の構えは切り妻造りの平入りで、正面に太格子1)と大戸があり、駒繋ぎの環が残る。本瓦葺の大屋根には煙出しの小屋根がのる。多くは中二階建て(今井では中二階を「つし二階」と呼ぶ)2)で、壁面を白漆喰で塗り込めて虫籠窓をつけている。なお、
|
 |
 |
 |
|
今西家住宅(慶安3(1650)年) |
豊田家住宅(寛文2(1662)年) |
音村家住宅(17世紀後半) |
|
 |
 |
 |
|
上田家住宅(延享元(1744)年) |
中橋家住宅(18世紀前半) |
旧米谷家住宅(18世紀中頃) |
|
 |
 |
 |
|
河合家住宅(18世紀後半) |
高木家住宅(19世紀初頭) |
称念寺本堂 |
|
図4 今井町の9件の重要文化財 |
天正年間以降に形成された新町や今町のエリアでは本格的な二階建ても現れる。
今井町には、豪壮な商家だけではなく、むしろ、江戸時代には通いの使用人が住む長屋が多かった。これらは商家ほど保存状態が良くなかったが、リノベーションされて住居や店舗に利用されている(図5)。また、店舗の看板を始めエアコンの室外機や消火器等も景観に配慮したものになっている(図6)が、
|
 |
 |
|
図5 リノベーションされた長屋の例 |
図6 看板や消火器を修景した住宅 |
この改修にも市からの補助があるそうだ。 今井町の景観的魅力は街並み全体が統一されている点にある。これは、住民の理解と協力が一致していなければなければできることではない。18年に及ぶ住民の話し合いの成果であろう。
つて今井郷を取り囲んでいた環濠は、排水路としての役割や外敵の侵攻を防ぐ防御・自衛的機能を持っていた。発掘調査によって16世紀中頃から後半に掘削された旧環濠と、16世紀末以降新たに掘削された新環濠の2時期に分かれることが判明した。その環濠のうち、比較的旧況を残していた今井町西端部分を、発掘調査の結果を元に復元し(標題の写真)、周囲を公園として開放している。
い道路に面して家屋が連続する今井町は、江戸時代から「町掟」において
|
 |
|
図7 40tの防火水槽と防災小屋を備えた「旧西町生活広場」 |
防火について特に厳しい定めが設けられていた。現在でも、都市計画道路を廃止したひとつの結果として、木造建築が密集する中で災害時に緊急車両の活動が制約される難がある。初期消火及び災害時の救援などの防災拠点の役割を果たすため、町内に4箇所の生活広場という施設を設けている。地下に耐震性の防火水槽を整備し、防災資材などを保管する防災小屋や公共トイレを備えているところもある(景観的調和のために木造に見せているが、実は鉄筋コンクリート製である)。また、2箇所の公園でも地下に防火水槽を設けている。
(参考文献)
1 八甫谷 邦明「今井町−甦る自治都市」(学芸出版社)
2 橿原市教育委員会「今井町−歴史的町並み」
1) 商品の展示・販売を行う「みせの間」などオープンな箇所に用いた。
2) 今井で2階の高さが制限されたのは、武士を見下ろさないという趣旨の規制であったという。ただし、屋根勾配を大きくとっているので、内部は思ったより広い(右図は「今井まちや館」のつし二階)。主に物置として用い、一部は住込みの使用人の居室とした。
|
|
|