四日市旧港の潮吹き防波堤



四日市旧港の潮吹き防波堤(正面)と西防波堤(右)
 石油化学コンビナートが並ぶ四日市港の一角にレトロな石積み防波堤が残る。現代の四日市港の原点となった「四日市旧港」だ。沖に見える防波堤には五角形の小さな穴がいくつもあり、高潮の時にはここから海水が噴き出すことから「潮吹き防波堤」と呼ばれる。本稿では、世界に例を見ないこの防波堤の建設に至る経緯をふりかえり、港の修築にかける先人の思いを学ぶ。

日市の地名は、室町時代末期から毎月4のつく日に市がたったことに由来する。また、隣接する四日市湊は、米・木綿・菜種油などを積み出す回船の拠点となっていた。
図1 東海道に残る石の道標、指による表示を併用している
市場町と港町の両面を併せ持ち、その相乗効果で発展してきた。慶長6(1601)年に東海道宿駅伝馬制度が敷かれると、その43番目の宿に指定され、その後は宿場町としての色合いを強めていく。天保14(1843)年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒があったと記録されている。41番目の宮宿(名古屋市熱田区)との間に「十里の渡し」という海路も開かれており、大いに賑わった。この航路は、本能寺の変を知った徳川 家康が三河に戻る際に利用したという説もあり、権威のあるものだったようだ。
の四日市湊は、安政元(1854)年6月に発生した「安政伊賀地震」1)と11月に発生した「安政東海地震」1)により大きな被害を受けた。さらに、安政2年と万延元(1860)年の高潮被害も重なって、漂流砂で湊が埋まってしまう事態を生じた。これを憂慮した回船問屋の六代目 稲葉 三右衛門(天保8(1837)〜大正3(1914)年)は、他の商人とともに応急的な補修を行った。
 新たに首都となった東京との間に蒸気船による貨物輸送が明治3(1869)年に開かれ、翌年には旅客定期輸送が始まる。こうした中、稲葉は「今この海に十万金を投じるのは後の日の四日市に百万金をもたらさんがため」と言って四日市港を近代的な港湾にすることを発案する。明治6年に防波堤建設・灯台再建・運河開削と掘削土を利用した蔵地や屋敷地の造成からなる四日市港の建設を出願し、自らの財を投じて工事に着手する。
図2(1) JR四日市駅前に建つ稲葉三右衛門の銅像 図2(2)「稲葉翁記念公園」に建つ「稲葉三右衛門君彰功碑」
しかし、資金不足や県の指導による設計変更などにより中断し、その間、県が防波堤の建設を担当するが、これも地租改正反対一揆などのために中断。稲葉が工事を再開して明治17(1884)年に完成を見た。港は、その後、特別輸出港に指定されるなど港勢が伸長する。
 ところが、稲葉の築いた防波堤は22年に来襲した台風で大破してしまう。 5年間しかもたなかった。しかし、稲葉の行為がその後の四日市港の修築につながったと高く評価されており、小学校の副読本に取り上げられ、JR四日市駅前に銅像が建てられ、西防波堤の付け根に「稲葉翁記念公園」
図3(1) 戦後の四日市港(出典:昭和22年測量国土地理院旧版地図「四日市東部」) 図3(2) 明治23年の四日市港(出典:明治23年測量国土地理院地図「四日市東部」)
が整備されてそこに彰功碑がある。
 すなわち、コンビナートの造成のための埋立てが行われるまでの四日市港(現在ではこれを「四日市旧港」と呼ぶ)は、図3(1)のように直線に延びる「西防波堤」(L=77m)と屈曲する長い「北防波堤」(L=199m)の2本から成っているが、明治23年の測量による旧版地図(図3(2))にもほぼ同じ形状の防波堤が描かれているのだ。稲葉の防波堤が修築されて近代の四日市港が形成されたことがわかる。
風で崩れた防波堤の巨石が暗礁になるなど船の出入りに大いに支障をきたすようになったので、県は四日市町(当時)に改修を急がせた。しかし、町は他の水害復旧に費用を要した。そこで県は、予算確保のためにその根拠となる「土木費支弁法」を何度も改正し、明治25(1892)年になって所要額の確保に至った。
図4 明治27年の防波堤改築を記念する碑
これにより行われた修築は27年に完成し、これを記念する石碑が建てられた(図4)。が、その2年後に来襲した台風によりまたしても防波堤は大破してしまう。たび重なる被災に対し、県・市は国を交えて入念な検討を行い、31年になって防波堤の工事を開始した。
 これを請け負ったのは服部 長七(天保11(1840)〜大正8(1919)年)だ。服部は三河国碧海郡棚尾村(愛知県碧南市)の左官職人の家に生まれ、16歳で父を亡くした後はいろいろな職業を経験して、やがて東京で宮内省や大久保 利通・木戸 孝允などの要人の邸宅工事に参画して大いに信用を得た。明治9(1876)年に水中でも硬化する「長七たたき」という人造石工法を開発し、翌年の第1回内国博覧会場の泉水池に適用した。そして、自ら新田開発を施行してこの工法の有用性を実証し、各地の河川・海岸工事に導入して大いに成功した。17年からは宇品港(広島市)の工事を請け負っている。
 四日市旧港北防波堤の著しい特徴とされるのは、断面が図5のように、
図6 潮吹き防波堤の模型
図5 潮吹き防波堤の断面イメージ
高さ4.7mの大堤と高さ3.7mの小堤から成るラクダのこぶ状であり、小堤を越えて大堤で遮られた海水が大堤に開いた五角形の水抜き穴から港内に排出されるようになっていることだ。波が高い時には水抜き穴から水が噴出することから「潮吹き防波堤」と呼ばれる。波浪を防ぐとともに防波堤自体も守ることを意図したものと思われる。世界にも例を見ないとされるユニークな防波堤だ。このしくみを示す模型が稲葉翁記念公園にある。ボタンを押すとプールに波が起こり、やがて小堤を越えた水が水抜き穴から流れ出る。
 この潮吹き防波堤を誰が発明したのか、現在は不明である。地元にはデ・レーケの設計だという伝承もあるが、それを裏付ける根拠はないようだ。
の後、潮吹き防波堤をとりまく環境は大きく変わった。戦争中の昭和16(1941)年から潮吹き防波堤の港外側が埋立てられて精油所となった。防波堤は護岸に機能を変える。昭和37(1962)年の伊勢湾台風を受けて、大堤はコンクリートで嵩上げされた。ただし、先端の水抜き穴2つ分の14.7mが歴史的に貴重な土木遺産として保存された。そして、平成8(1996)年には、潮吹き防波堤や西防波堤を含む「四日市旧港の港湾施設」が、港湾施設としては始めてわが国の重要文化財に指定された。

(参考文献) 細谷 州次郎「たぐいまれなる「潮吹き防波堤」」(建設コンサルタンツ協会「Consultant」Vol.307所収)

1) 実際に発生したのは改元前の嘉永7年であったが、安政年間に頻発した一連の地震と合わせてこのように呼ばれることが多い。四日市市北町の建福寺にある「安政元年震災惨死者之碑」(右図)には火災のため300余人が死亡したと記されている。

(2025.12.14)